2017年9月アーカイブ

■キリスト教とわが国の結婚観
キリスト教が渡来し、その結婚観、夫婦観が、わが国の習慣や感情に影響をあたえたことについては、当時の「耶蘇会士日本通信」での報告にも出ています。

一例しますと、河内国三箇城(八尾市)の城主サンチョ(大木殿)の姫モニカが、堺滞在中のイルマン(修士)に、心に染まない人に嫁がせられようとしていることを訴えると、イルマンはサンチョに、姫が同意しないのに親が結婚を強制することの罪悪を教えて、やあさせたというのです。

親の意のままに嫁がせられていた多くの武家女にとって、これがどんなに大きな福音だったかは、その後多くの武家の女性のキリシタン信者を出し、ガルシャ夫人などもその一人です。

ガルシャは明智光秀の女、細川忠興の妻となり、石田三成の挙兵に際し、夫の忠興が関東(徳川)方として出陣しているので、大阪(豊臣)方の迎えを拒絶したことで有名です。


■挙式に先立つ結婚の告示
キリスト教がプロテスタント(新教)、カトリック(旧教)に大別できることは常識で、教会や牧師によっても、式次第には若干の相違があります。

しかし、結婚を神の添わせたまう、新たな生命の創造される人生の出発点と、意義深く考える清神には変わりありません。

それにはまず、挙式に先立ち、結婚の告示を行ないます。

教会のおきてによりますと、当事者だけの了解では挙式はできません。

他人の正しい了解が必要で、前もって両人の結婚について故障がないかどうかを告示して確かめることになっており、婚約の発表なども、その一種とみることもできます。

すなわち、結婚の告示または婚約の発表によって、故障の申し出があった場合は、その結婚は延期されるか、断わられるがすることになるのです。

方法は、ことばどおりに告示ですが、今日では婚約発表をもって、これに代えることも多いようです。

嫁取りをするほうでもそうですが、嫁入りさせるほうでもお金のかかることはたいへんです。

それでいて相手方には、それほどと思われなかったりした話は、よく耳にするところですが、徳川二代将軍秀忠の女和子が、後水尾天皇に入内した乏きのでとき、二条城(徳川氏の関西居城)から皇居に運びこまれた荷物は、三百七十八荷をかぞえ、百万石の大名の一年分の年貢収入に匹敵するほどの費用をかけたといわれ、お化粧料としての持参金(?)も三万石(当時の皇室の所領は八千石)です。

武家の女の入杓は、平清盛の女(建礼門院徳子)があるが、これも後白河法皇の猶子(養女)としてです。

まったく先例がないと大奮発となったわけで、諸道具などはとくに京都で、高値をづけたものに発注したくらいですが、それでも和子の支度は期待外れとして、"近比おかしき事也"と、ある公家さんの日記にあります。

村内婚の時代はとにかくとして、かつては嫁入り道具を先方に届けるのは、婚姻の儀式の重要な一部で、結婚式の当日、花嫁とともに送り出す慣例でした。

その嫁入り支度も、今日的意味では、だいぶ以前と異なる点も生じてきましたが、依然として度外視できないものであることは、否定できないでしょう。

だが、現在の荷物送りは、ふつうは結婚式とは切り離して考えられ、行なわれているのが実状のようです。

すなわち、嫁入り道具もそろって、挙式の日が近くなると、両家で相談の上、適当の佳日をえらんで、荷物送りということになるのですが、これには正式には、仲人さんにお願いして先方に出かけてもらい、また、親類、知己のうちの適当な人に、荷宰領になっていただくのです。

もっとも実際的には仲人さんに先にいってもらい、トラックではこんだりもします。

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