2011年5月アーカイブ

日本では、国際結婚を後押しする機運が地方を中心に高まりました。地方では、若い女性が少ないため、お嫁さんを探す手段として国際結婚に期待が高まったのです。

しかし、地方の市町村などの行政機関や公益団体は、国際結婚支援に専念してこまめに働くわけにいかず、その方法も議会の承認を要したり、公益法人もその目的の中に国際結婚をうたっているわけではないので、自ずから制約された範囲内の活動しかできません。

その隙間を縫うように、かつてのお見合い仲人の役割を担う国際結婚の仲介業者、別のブローカーが出現してきました。

ブローカーの彼らの活動によって地方の青年や都会で忙しく働くサラリーマン、内気な青年などが救われているのも事実です。

一方で、仲介を業とする国際結婚相談所なるものが雨後のたけのこのように都会から地方へと広がりました。

これらは、できてはつぶれ、できてはつぶれの繰り返しで、その経営の不安定さの犠牲になるのは、会員となった日本人の男性でした。

独身女性の国際結婚希望者もいないことはありませんが、結婚相談所や仲介業者に多額の金銭を払ってまで、外国人の紹介を依頼する例はまだ少なかったのです。

1960年代までは国際結婚は日本では一般的でなく、国際結婚といえば、日本人の水商売関係の女性と欧米人、特にアメリカの軍人との結婚というイメージがありました。

しかし、1970年代に入りさまざまな国の人との結婚が徐々に増えていき、国際結婚も特別のものではなく一般的なものとして社会に受け入れられ始め、その数は年間三万組を超えました。

国際結婚をした人達がどういう縁で結ばれたかを見てみますと、外国や日本の企業に外国人が就職してその企業や取引先の人達との出会いの中で男女の結婚に至るケースが見受けられます。また、留学生、就学生、企業への研修生等が職場や学校で知り合うとか、国際交流という名のサークルにおいて知り合う、日本人が海外に仕事、観光等で出掛けて行き現地で知り合って交際から結婚へという展開となっています。

一方、仕事に追いまくられたり、地方や過疎地に住んでいる三〇代後半から五〇代の男性は、そもそも身の回りに外国人がおらず、コミュニケーションとしての語学もできない人が大半です。これでは、触れ合いのチャンスどころではありません。

そこで、地方を中心として結婚という言葉が喧伝され、行政機関や地方の公益団体等が過疎対策として国際結婚に取り組むところがでてきました。






外国人と結婚すれば日本人でなくなるの?ここですこし歴史のおべんきょうを。

国際結婚を見る目というのは、歴史的な背景があって少しずつつくられてきたものです。

日本には、いったいどんな国際結婚の形があったのでしょう。

国が法律で規定していった国際結婚をふりかえって、そのときのようすを想像してみてください。

◆明治以前◆

徳川幕府が鎖国を始めたとき、イギリス人やオランダ人の日本人妻や子どもたちはジャガタラ(今のジャカルタ)へ、ポルトガル人やスペイン人との混血児たちもマカオへ追放されたということです。

鎖国の前後に日本へやってきた外国人は男性であったから、そのときの組み合わせは日本の女性と外国の男性がほとんどでしょうが、数えるくらいわずかだったにちがいありません。

◆明治憲法のとき◆

明治になって、1873(明治6)年、はじめて日本国籍についての布告がなされました。

これは「内外人婚姻法規」とよばれていたように、外国人との結婚に関するものでした。

ここでは、外国人と結婚するのに政府の許可がいり、外国人男性と結婚する日本人女性は日本の国籍を失い、日本人男性の妻となる外国人女性は日本の国籍を得るとありました。

これが1899(明治32)年の法律としての国籍法に引きつがれました。

外国人の妻となる日本人女性は日本の国籍を失い、日本人の妻となる外国人女性は日本国籍を得るという男性中心の夫婦国籍同一主義が採用されました。

また、それらの子どもについては、日本人の父を持つ場合のみ日本国籍をみとめました。

この法律が戦後の民法改正まで続くのですから、いまでも外国人と結婚すれば日本人でなくなると思っている日本人女性がいるのも不思議ではありません。